地域自慢
太田小自慢
太田小学校の石碑
舞鶴城趾碑 |
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太田城の起源は明らかではありませんが,天仁2年(1109年)に藤原秀郷の子孫が下野より太田の地に来て,太田大夫と称して,城塞を築いたのが始まりといわれています。 馬坂城の佐竹隆義が,通延の孫道盛を服属させて小野台地(現瑞竜中学校敷地)に移して小野崎氏を名乗らせました。自分は,太田城に遷りさらに城の規模を拡大しました。 佐竹氏の入城の日に城の上空を鶴が円を描くように飛んだので「舞鶴城」と呼ばれるようになりました。天正18年(1590年)佐竹義宣が水戸城に遷るまでの約470年間に太田城を本拠地として四方に勢力をのばしました。府中の大掾氏をはじめ,常陸南部の豪族を滅ぼし,54万石余を領有することになり,全国で有数の大名となりました。その間,太田城は,義宣の父義重が居城し,義宣の政治を助けました。 佐竹氏は,関ヶ原の合戦で徳川方に味方しなかったために,慶長7年(1602年)秋田20万石に国替えとなり,太田城も廃城となりました。江戸時代,城の一部は太田御殿と呼ばれ,家老中山備前守の別館となりましたが,中山氏が文化元年(1804年)松岡へ知行替えの後,焼失してしまいました。 太田城(舞鶴城)の本郭は,現太田小学校の敷地一帯にあったとされています。 |
日下部先生父子事蹟顕彰の碑 |
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この石碑のある場所は,天保8年(1837年),水戸藩によって開設された郷校,益習館があったところです。この益習館では,医学と儒学の講義が行われました。 この初代館守が,日下部連(くさかべむらじ)でした。連は,薩摩藩士でしたが,訳あって浪人となり,水戸領伊師村(十王町)に住み,塾を開いて子弟の教育に当たっていました。後に水戸藩からその学識が認められ,館守となり,太田益習館の官舎に移り住みました。連は弓術や詩文に優れ,誠実な人柄で青少年の教育に尽力しました。天保11年(1840年)十月に,官舎で72歳をもって病没しました。長男伊三治(いそじ)は父の後を受けて安政2年(1855年)益習館館守となり,館生を教育し,益習館の名声を上げました。 その後,幕末尊皇攘夷運動に活躍し,水戸藩へ戊午の密勅降下に活動して,子の祐之進と共に捕らえられ,安政の大獄の犠牲となりました。 これらの維新回天の偉業に参加して功績を残したことをたたえ昭和9年(1934年)9月,太田小学校の西側,益習館跡に日下部父子の頌徳碑が建てられました。 「天興正義」の題字は 東郷平八郎 碑文は 徳富蘇峰 (東郷平八郎のてる子夫人は,伊三治の孫にあたります。) |
聖上御駐蹕処の碑 |
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この碑は,昭和4年に久慈川沿岸において5万の将兵,百余の飛行機が参加して陸軍大演習が行われました。演習後に,太田小学校に立ち寄られた天皇陛下が,北運動場(当時)において将校に対して講評を行い,さらに児童に訓辞されたことを記念して建てられました。 翌年11月17日が第1回行幸記念日として,昭和19年まで続けられました。 |
太田小学校に関わりのある偉人
佐藤 進 |
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佐藤進は弘化2年(1845年)11月,現在の内堀町にある酒醸造業二代目高和清兵衛の長男として生まれました。 聡明で志操堅固な貴婦人であった母に厳しくしつけられ,8歳の時に,近くの若宮八幡宮の神官が開いた寺子屋で勉学に励みました。13歳の頃には四書五経の素読を終えていたそうです。寺子屋から太田郷校益習館に入り,一心に勉強を続けました。母は,進の将来を深く考え,家督を彼の姉に譲り渡し,医学の道に精進させることにしました。 母の妹が下総佐倉(千葉県佐倉市)の藩医である佐藤尚中に嫁いでいたので,母は尚中に進を預けました。佐藤尚中は幕末の我が国における外科医学の先駆者であり,その養父佐藤泰然は医学の名門「佐倉順天堂」の創始者でした。進は,19歳の頃には多くの先輩をしのぎ,儒学,オランダ語,医学に精通し,塾中の評判になりました。尚中は,進の学問の成長ぶりを頼もしく思い,佐藤家の養子として迎え,進はその長女静子と結婚し,順天堂の後継者となりました。 進は,明治維新前後の彰義隊の戦いや会津戦争での負傷者の治療にあたったが,自分の医術の未熟さを知り,明治2年(1869年)24歳の時,単身ドイツのベルリン大学に留学しました。その際,進は明治政府になってから初めての海外旅行券の発行を受けました。 明治3年ベルリン大学医学科に入学し,全科を習得し,大学から日本人として初めての「ドクトル」の学位を授与されました。帰国後,父尚中が東京に建設した順天堂病院に勤務し,西南の役,日清,日露戦争では軍医として活躍しました。明治22年に当時の外務大臣大隈重信が暴漢に爆弾を投ぜられ右足に重傷を負う事件があり,大隈重信の右大腿部切断の大手術を40分で終え,命を救ったというエピソードがあります。明治35年(1902年)順天堂病院の改築を行い,東洋一の総合病院に育て上げました。順天堂病院では,野口英世の指導にもあたりました。 医学発展のため生涯を捧げた進は,大正10年(1921年)7月,76歳で亡くなりました。 佐藤進は,明治44年に郷土のために当時の金額で6000円を寄付し,県内で4番目の幼稚園が建てられました。 幼稚園の名前は「進徳幼稚園」と名付けられました。 さらに,大正9年に2万円の寄付により太田小学校に「雨天体操場兼講堂」が建てられました。 |
前島 平 |
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茨城県にはじめて電気をともした人が前島平です。平は、慶応元年(1865年)3月東茨城郡大野村(現水戸市)の水戸藩士、井坂幹の二男として生まれました。明治維新となり、旧藩士である井坂家も生活はあまり楽ではありませんでした。 明治12年(1879年)平が15歳の春に、苦しい家計を少しでも助けようと、久慈郡太田村(現常陸太田市)の亀宗呉服店に丁稚奉公にあがりました。平は一生懸命に仕事をし骨身を惜しまず働きました。やがて、平の誠実さと勤勉な人柄が「亀宗」の本家である呉服店「亀半」の当主前島半三郎に認められて、20歳の時に婿養子となりました。彼の努力によって、「亀半」の家業は盛んになり、家業のかたわら、太田商工会議所取締役、太田実業倶楽部長、町会議員を務めました。明治31年(1898年)6月には太田郵便局長に任命され、その後、古くから続いた「亀半」の店を閉じ、財界人への道をたどっていきます。 明治39年(1906年)10月、茨城では初めての電気会社「茨城電気株式会社」を太田に設立し、平が代表取締役になりました。久慈郡中里村に水力発電所の建設工事が進められている時、日立鉱山の経営者久原房之助から買収の話がきて、一時的に日立鉱山に譲渡しました。この資金を元に、水戸に火力発電所を建設しました。明治40年(1907年)8月10日県内で初めて水戸に電灯がともされました。その後、中里、町屋(常陸太田市)の両水力発電所を日立鉱山から買収して、明治44年(1911年)10月28日に常陸太田市に電灯がともりました。 昭和8年(1933年)8月、69歳で没するまで「茨城の電気王」前島平は、電気事業に心血を注ぎ、今は常陸太田市の法然寺の墓地に安らかに眠っています。 昭和12年に前島平氏寄贈による木造2階建ての新校舎が太田小学校に建設されました。 |
梅津 福治郎 |
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梅津福次郎は,安政5年(1858年)2月,久慈郡太田村下井戸(現常陸太田市)に生まれました。少年時代,誉田村(同市)の菊池醤油屋に長い間奉公していました。 少年の頃から商才にたけ,負けず嫌いが人一倍強く,道を歩くにも友だちより一歩でも二歩でも先んじなければ気が済みませんでした。洋々たる前途を夢見る梅津青年は,明治13年(1880年)に,希望の新天地として北海道へ旅立ちました。 函館を永住の地と決め,行商を行い,一日に人の二日分,三日分も働きました。そして,函館の一等地に「梅津商店」を設立しました。海産物問屋や酒問屋として商売を拡張し,巨万の富を築き上げました。 福次郎は,常に報恩感謝を忘れず,郷土常陸太田へ多額の寄付を行いました。福次郎の寄付によって,太田町役場(現梅津会館)や現県立太田第二高等学校,現県立西山研修所などが建てられました。 |